ドロウジーズ

スピッツ多めです

言葉

 スピッツの詞世界において「言葉」とはなにか。

 

解らない君の言葉 包み紙から取り出している(流れ星)

言葉ははかない(猫になりたい)

夢のような唇を すり抜けるくすぐったい言葉のたとえ全てがウソであっても それでいいと(フェイクファー)

言葉より 触れ合い求めて 突き進む君へ(スピカ)

愛にあふれた短い言葉を たったひとつだけ(放浪カモメはどこまでも)

波打ち際に 書いた言葉は 永遠に輝く まがい物(いろは)

言葉より確実に俺を生かす(さわって、変わって)

君の言葉を信じたい ステキな嘘だから(ネズミの進化)

少し苦く 少し甘く もらった言葉消さないもう二度と(スワン)

 

 スピッツの歌詞は「僕」と「君」との物語だが、そこにおいて言葉はふたりの距離として描かれる。根底にあるのは言葉は嘘であるという感覚で、初期は特に如実だ。「僕」は「君」の言葉に安心することができず、君に触れること、君とひとつになることに苦心する。言葉は自己と他者との間に置かれるものだから、「僕」にとってそれは無限の障害にしかならない。人は言葉によってしか噓をつけないのである。

 けれどもマサムネの言葉に対するこのような態度は年を経るにつれ変わっていく。「君の言葉を信じたい ステキな嘘だから」が象徴的だろう。「君」の言葉であるから信じようというのではなく、言葉は嘘であるという感覚はそのままだ。しかしここでの「僕」はそのことさえ「ステキ」なこととして受け入れようとしている。

 つまり「僕」は言葉の内容云々というよりは、言葉が言葉であるという事態ごと受け入れようとしているのでないか。これは重要な一歩だ。前述の通り、以前の「僕」にとって言葉が言葉であるということは「君」と離れ離れであること、スピッツ的に言い直せば汚れた現実社会でひとり置き去りにされているという事態そのものだった。これを克服する方法として「君」とひとつになることが歌われてきたのであった。

 しかし最近のスピッツが描くようになったのは「君」を追いかけるものとしての「僕」という姿だ。それは「君」との距離に絶望するのでなく、その距離を認めた上でなお「君」を求めていることを意味する。「僕」と「君」との距離を認めること、それは「僕」を「僕」として認め、「君」を「君」として認めることだ。コミュニケーションにかかる労力が極端に減って手軽な共感がもてはやされる時代になって久しいが、本当の他者理解とは当の相手を理解しえないものとして受け入れることだろう。理解しようとすることでしか理解のしえなさには届かないのである。ただ追いかけることによって「君」は姿を現すということ、そしてこれまでずっと「君」と出会えないことによって「僕」は「僕」自身と出会いつづけていたということにどこかでマサムネは気づいたんだろう。