ドロウジーズ

スピッツ多めです

一行詩集、ラズベリー

君から盗んだスカート 鏡の前で苦笑い オーロラのダンスで素敵に寒いひとときを

  ——— 惑星のかけら

 

夜には背中に生えた羽を見せてくれたマリ

   ——— 僕の天使マリ

 

晴れた空だ日曜日 戦車は唾液に溶けて 骨の足で駆けおりて 幻の森へ行く

  ——— 日曜日

 

バナナ浮かぶ夜は 涙こらえて 下手なピンボールだって 味方につけた

   ——— たまご

 

あきらめてた歓びがもう目の前 急いでよ 駆け出したピンクは魔女の印?

   ——— ラズベリー

 

宝貝ひとつで 覚醒できるのさ

   ——— 白い炎

 

それは謎の指輪

   ——— さらばユニヴァース

 

本当は犬なのに サムライのつもり 地平を彩るのは ラブホのきらめき

   ——— ローテク・ロマンティカ

 

そしてミーコの彼はミーコの彼じゃない

  ——— ミーコとギター

点と点

 点と点とは「僕」と「君」のことだろう。点という消え入りそうな小さなものをメタファーとして与えているのは、スピッツで度々歌われるふたりが出会うことの途方もない偶然と、しかし出会うのはこのふたりでなければならなかったのだという絶対的な必然がこめられているからだ。

 さてざっと眺めると変な歌詞である。一番のメロで(「君」が「僕」の)「前世からの鼻歌」に「やっと気付いてくれた」と言っているのに、次のサビでは「昨日の朝めしも 思い出せそうだし」というフレーズが飛び出す。「前世からの鼻歌」なんていう遠い不確かな過去の頼りないもので「君」とつながろうとするのに、「昨日の朝めし」に関したら覚えていないというのだ。「有名な方程式を 使うまでもなく」とあるが、実にスピッツらしい変な方程式が繰り広げられている。

 この曲のテーマは”「君」と出会うことによって過去を超える”ことにある。Cメロがわかりやすい。ふたりが「組み合わ」さることで「それまでの 思い込みをぶち壊」し、「固い心」は解放されると書かれている。また二番には「悲しい記憶の壁 必死こいてよじ上った」「うしろは知らない」ともある。

 そんな「君」と出会う手段が「前世からの鼻歌」であるというのは、上述の偶然性と必然性の重ね合わせが明らかだろう。自分の日常の記憶は振り払おうとするのに、「君」とのつながりを支える「前世」をは信じているのだ。「ナナメの風ん中」でも「君」へのまなざしは「まっすぐ」だと歌われていることからも、「君」という存在への手の差しのべ方の強さがうかがわれる。

 そうして「君」と「一緒に」「ナイル」を渡れば「昨日の朝めしも 思い出せそうだ」という。これはそれまでの記憶に代わる新しい昨日を手に入れられそうだということではないだろうか。もしくは前世まで戻ってそれこそが本当の昨日だと言っているんだろうか。ともかく「明日」でなく新しい「昨日」を手に入れようというのはこれぞマサムネ節。

 そしてここまで力強く歌いながらも「平気なフリしてても 震えてる」と弱気な面が差しこまれなければならないのもこの詩人らしさだろう。

名前をつけてやる

 タイトルからして子供っぽい意地につつまれている。しかし最後のサビののち一転しゃんしゃんしたギターとマサムネのラララ…という声が静やかにひびいて終わるという不思議なバランス感覚をもった曲である。では、順番に見ていこう。

 一番のメロは「まぬけなあくびの次に 目が覚めたら寒かった」と歌われて終わる。つまりそれ以前の詞は「僕」の見ていた夢での出来事だった。夢だから「小さな街」にも「ぬかるんだ通り」にも名はない。「似た者同士」とは「僕」と「君」のこと。「僕」と似ている「君」という勝手な理想が実現されてしまっているのも夢だからだ。

 だけどもそんな夢の中でさえなんだか呆けているだけで結局目が覚めてしまう。その直前の行動が「まぬけなあくび」というのがおもしろい。「僕」はまさに眠っているからそのあくびは眠りにつながっていない。逆にあくびをしたら目が覚めた。のんきにしていたら現実に戻されてしまったというのはニノウデの世界の二番にも通じる。

 二番になると「名もない小さな街」だったのが「マンモス広場」となって、どうやらこちらは夢じゃないらしい。マンモスとは「僕」のアレ。かなりあからさまだ。しかし結局どうすることもできず「君」とはお別れになる。それを「無言の合図の上で」のこととしているのは言い訳なんだろう。それにしても「回転木馬」とか「駅前のくす玉」とか寂しげで安っぽい表現が楽しい。ほかの曲にあってもそうだがマサムネはこういうセックスに関する表現はとめどなく思いつくにちがいない。

 そして問題は、何に「名前をつけてやる」と歌っているのかということ。これはおそらく「君」の名前ではないだろうか。もちろん「君」には現実の姓名があるわけだが、それでは叶わない。「僕」が名前をつけることで「僕」の世界へ招こうとしているのだ。バニーガールという曲で「名も知らぬ君に」という詞があるが、ここでの「僕」も「君」の名前を知らないのかもしれない。そうして考えた名前を「誰よりも立派で 誰よりもバカみたいな」と歌うのは、少年らしく自らの想像を過大に誇りながらも同時にそれがでっち上げにすぎないということを自嘲するからだ。この自信のなさは初期スピッツに特有のもので、たとえばロビンソンなんかと比べたらすこぶる弱気だとわかる。

 

一行詩集、秋

君の冷たい手を暖めたあの日から手に入れた浮力

  ——— コスモス

 

ささやく光 浴びて立つ 君を見たの日

  ——— コスモス

 

錆びついた扉が はじめて開くよ 僕らは ほうき星 汚れた

  ——— ほうき星

 

歪んだ鏡の向うに 忘れてた道がある さあ まだらの靴を捨てて

  ——— 魔女旅に出る

 

ウサギのバイクで逃げ出そう 枯れ葉を舞い上げて

  ——— ウサギのバイク

 

今 ガラスの星が消えても 空高く書いた文字 いつか君を照らすだろう

  ——— 魔女旅に出る

 

行ったり来たり できるよこれから 忘れないでね 大人に戻っても

  ——— 未来コオロギ

 YouTubeで聴いてみただけといったスピッツファンでない人からすれば、「渚」は夏を繊細ながら爽やかに奏でる曲という感じだろう。しかしよくよく歌詞を見てみれば、そんな表向きの爽やかさに対し違和感を覚えるはず。

 渚とは砂地と海の入り混じる場所。スピッツにおいて「砂漠」と海がそれぞれどんなモチーフで用いられてきたか知っているなら、歌詞を見なくてもタイトルだけで曲の雰囲気はイメージできるかもしれない。しかしそれにもまして「僕」は切羽詰まっているように思われる。

(この曲には「僕」といった一人称を表す言葉は出てこないが、ここでは便宜的にその主人公を「僕」と名づけておく)

 Aメロから見ていこう。そこでは「僕」の「君」への態度が「思い込みの恋」「ねじ曲げた思い出」「ギリギリ妄想だけで」などのフレーズで歌われる。「僕」は「妄想」によって「君」との「つながり」を保とうとしている。

 Bメロをとばしてサビを見てみれば、そのことは象徴的に言われている。「やわらかい日々」とは「僕」が「妄想」した「君」との日々ということだろう。

 ではなぜ「二人の夢を混ぜ合わせる」のが「渚」なのか。それは「僕」のいる場所が陸で、「君」のいる場所が海だから。言い換えれば「君」はすでに亡くなっている。

 二番のBメロでそれがわりかしストレートに表現されていて、「妄想」で「君」と心中したいと書かれている。一番のBメロでも似たことが歌われるが、ここでマサムネの才気炸裂。「君」のいる死後の世界へ行こうと試みることを「野生の残り火抱いて 素足で走れば」と表現するのは、草野マサムネのセンスでなかったらちょっと思いつかないだろう。